信州伊那谷は

日本のほぼ中央に位置する、山々に囲まれた盆地です。中央アルプス駒ケ岳からの遥かなる展望、南アルプスの大自然、春を彩る高遠城址公園のコヒガン桜、豪快な天竜舟下りなど美しい自然に抱かれた景勝地です。

そしてここ伊那谷に住む人々は普段から馬肉(さくら肉)を食べます。世界的に観ると、フランスやアジアの遊牧民、エスキモーなど馬肉を食べる民族のいる地域はいくつかありますが、伊那谷ほど日常の生活、つまり食文化として馬肉が根付いている地域は珍しいのではないでしょうか。

伊那谷ではその地理的特徴もあって、昔から博労(家畜商)による馬の売買が盛んに行われていました。(ちなみにもともと当越後屋は馬の行商人相手の常宿をしておりました)もちろんこれらの馬は食用ではなく、主に農耕馬として北陸や東北地方から連れてこられました。そのうちに…老いて働けなくなった馬を食べる習慣ができ、食用としての馬の売買にが盛んになったのです。

さて、一般家庭での馬肉食文化の定着は戦後からと言われています。食糧難の時代、すき焼きや焼肉として安価なタンパク源を馬肉が供給していたわけです。(当時は牛肉や豚肉よりも馬肉ははるかに安く、手に入りやすかった)また、馬肉を生で食べる習慣もやはり戦後から始まりました。海が無く海に遠い伊那谷では、魚の刺身の代替が馬刺しだったのかも知れません。馬刺しは火を入れたすき焼き肉以上に良質なタンパク質を供給できたわけです。


ところで・・・

日本で馬刺しが有名と言えば伊那谷の他に熊本があります。熊本の馬刺しは、特に「サシ」の入った霜降りとして有名です。「サシ」というのは、肉の赤味に網目状に入った脂肪のことで、「サシ」の多く入った肉が霜降りと呼ばれます。馬自体が脂肪の付きにくい動物であるので、霜降りは確かに手に入りにくく、一般的にも珍重され、高価ではあります。ただ赤味と霜降り、どちらが美味いかは好みが別れるところです。言えることは貴重な霜降りは食文化とは成り難く、伊那谷の馬刺しこそが「さくら肉」と呼ばれ食文化として定着したと思うのです。

最後に・・・

新鮮で美味い馬刺しを食べたときの形容は人それぞれですが・・・こんな表現をされると、いてもたってもいられなくなりそうです。以下は作家の丸谷才一氏が越後屋に来店し、実際に馬刺しを食べたときの感想を文芸春秋(昭和48年)に掲載したものです。

「この何やら艶な趣のある赤黒い肉片を生姜醤油にちょいとひたしてから口にすると、まずひんやりとした感触が快いし、柔らかくておだやかでそれだけで、さながら川の流れに舞い落ちた牡丹雪のように溶けてゆく。その味をもう少し詳しく説明すれば、牛肉と鶏肉の間のようでもあるし、中トロと鰹と烏賊という三種の刺身(ただし何れも最上のもの)のちょうど中間のような気がするが、やはりこれは極上のバサシそのものと形容するしかない。」

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